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    馬喰達は出て行つた。徳次は残つた。一人でぶつぶつ云ひながら、宛かもそれで勇気をふるひ立たせようとするかのやうに、さかんに身体をぐらぐらさせた。その度に、彼の敵意は露骨になつていつた。橋本屋の主人は何とかしておとなしく引上げさせようと骨を折つた。が、それはかへつて徳次を興奮させた。主人の引きとめる手を払ひのけながら、彼はつひに鬼倉の前にどかりと坐りこんだ。

    「あいつも、君んとこと同じで、子供ができたらしいよ」

    房一は思はず笑ひ出した。

    房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられていた。

    間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃いんぎんな荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つていた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつているが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞ひだと同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音こわねの中にも響いた。

    男は、びつくりしたやうに房一を見た。

    「往診?ふむ、ふむ」

    「ウシ!ウシ!」

    と、徳次は足を踏ん張つたまゝ今泉に云ひかけた。こんなに彼の方から話しかけるなんてことは滅多になかつたので、よほど虫のいどころがよかつたのだらうが、それでもいつものあの愚弄するやうな色は争はれなかつた。

    その間に、房一は駆けつけて来た駐在所の加藤巡査としやがみこんで、しきりと善後策を講じていた。傍には練吉も、神原喜作も、小谷も、それから徳次の顔まで見えた。徳次はきよろりとした眼を一層大きくし、加藤巡査と房一とが話す様子を熱心に見まもり、時々うなづき、口をもごもごさせて、何か云ひたげにしていた。加藤巡査はさつきから人々の塊りの間を説得して廻つていたが、無駄であつた。今や驚くほどの寒さが感じられたにかゝはらず、加藤巡査の顔は疲労し、汗を浮かべ、しきりに手真似を入れて話していた。明かに出張所側の手落ちだつた。が出張所の側では門を固く鎖ざし、どこかへ引きこんでしまつているので、話のつけやうがなかつた。

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